体育・スポーツ分野の拡大と研究者・教育者の立場

■体育・スポーツ分野の範疇の拡大と専門分化傾向

近年、体育・スポーツに関連する研究対象や方法、研究成果の専門分化の傾向が一層進んだことにより、既存の学問の枠組みによってそれらの範囲の全てをカバーすることが難しくなってきています。例えば、体育・スポーツ研究者の多くが所属する「一般社団法人 日本体育学会」が名称変更したこともその一例と考えることができます。
2021年4月より「一般社団法人 日本体育・スポーツ・健康学会」という新たな名称に生まれ変わった当該学会のホームページを見ると、名称変更について記載された趣意書の中では、研究対象・研究目的・研究方法のいずれもが著しく多様化したという点が問題の背景の第一にあげられています。また、改正理由の第一として、教育の範疇である「体育/体育学」という名辞では研究の全体像がカバーしきれないという点もあげられています。この一例からもわかるように、体育・スポーツに関連する研究分野は、学問の範囲の拡大と専門分化という性質を抱えていることが分かります。

■研究分野の進歩にともなう弊害

科学を進歩させるためには研究者自身がより専門化すること、すなわち研究領域の細分化が不可欠であると言えます。なぜなら、研究対象を限定し、より厳格で厳密な研究方法を採用することによって個々の研究は深化していくという性質を持つからです。しかし、個々の研究が専門的になればなるほど、研究者は科学の他の部門との接触を失ってしまうことが危惧されます。そして結果として、総合的解釈という視点からの乖離が起こってしまうのです。
かつてスペインの思想家オルテガは、このような自分の専門分野にだけ精通し、広く総合的解釈ができない科学者のことを「無知な知者」と表現しました。

かれは、自分の専門領域にないことを知らないたてまえだから、知者ではない。しかし、かれは≪科学者≫であって、自分の専門の微小な部分をよく知っているから、無知ではない。かれは無知な知者であるとでもいうべきであろう。(オルテガ,2002,p.139

この指摘を体育・スポーツ分野に引き寄せてみるならば、私たち研究者が各々の目の前の研究課題を解明することによって体育・スポーツ分野の全体像は発展し続けていくものの、研究者自身はその全体像を把握できていない可能性があるということが言えるかもしれません。仮にこの指摘が正しいとすれば、体育・スポーツ分野の研究者の多くが総合的解釈から乖離してしまっていることが懸念されます。

■若手研究者や学生が置かれている状況

現在の若手研究者にとっては、体育・スポーツを冠する学会組織や学術雑誌だけでなく、体育・スポーツに関わる博士号・修士号の学位なども存在していることがもはや当たり前です。そして、既に専門分化した先の各々の研究分野の中で研究を進めることによって、研究者としてのキャリアを重ねていくことも可能な状況にあります。
また、それは今まさに体育・スポーツ分野を学んでいる大学生、あるいはこれから学ぼうとする初学者にとっても同様です。特に、学生たちにとっては体育・スポーツ分野の全体像が見通せていないにもかかわらず、一つ一つの授業を受講している者も少なくないはずです。
だからこそ、私たちは研究活動だけでなく、日々の授業やゼミ学生への指導場面、学部学科のカリキュラム整理等に至るまで、学生教育に関わるあらゆるところで体育・スポーツ分野の全体像を俯瞰するという視野を持つ必要があると言えます。

■研究活動・教育活動への問い直し

自分自身の行っている研究が専門分化の一途を辿っているにも関わらず、一方では分野の全体像を把握することが求められるという、両極に向かう思考のベクトルを抱えることは非常に困難な課題です。しかし、未来の体育・スポーツ分野を支えることになる人々の中で、自分たちが寄って立つ当該分野の成り立ちや、その全体像を把握する態度が忘却されてしまうとすれば、それはオルテガが批判する「無知な知者」へと近づいてしまうことを意味します。
そのような状況に陥らないためにも、私たちの日々の研究や教育は体育・スポーツ分野全体の発展にどのような形で貢献しているのか? そして、私たちが専門とする体育・スポーツ分野の発展はこの世の中にどのように貢献しているのか? 私たちはこのような問いについてもきちんと目を向けてみる必要があるのかもしれません。

【引用文献】
オルテガ(著)寺田和夫(訳)『大衆の反逆』中央公論新社(2002年)

髙橋 徹
岡山大学学術研究院教育学域 助教
専門分野は体育、身体教育学、スポーツ科学など
【主な著書】
「体育とスポーツ」『はじめて学ぶ体育・スポーツ哲学』みらい(2018年)
「スポーツ文化の発展」『スポーツ文化論』みらい(2023年)