ラグビーの歴史と今後の日本ラグビーについて

■ラグビーワールドカップ

ラグビーワールドカップ(以後、RWCとする)第10回大会の決勝戦は、南半球のニュージーランドと南アフリカの対戦となった。南アフリカが激闘の末、1点差で逃げ切り2大会連続優勝を飾った。南アフリカ代表初の黒人キャプテンであるシア・コリシ選手は、前回大会に続き2回目のエリスカップ(優勝トロフィー)を掲げることができ、史上2人目の2大会優勝を成し遂げたキャプテン(もう一人はニュージーランドのリッチーマッコウ選手)となった。

RWCは1987年に第1回大会が開催された。一方、サッカーワールドカップは1930年に第1回大会が開催されており、ラグビーよりも遥かに歴史は古い。RWCの開催がサッカーよりも遅れた理由には、ラグビーの国際試合は「テストマッチ」と呼ばれ、国を代表する選手同士の真剣勝負を意味し、RWCより以前に国と国の誇りをかけた試合が行われていたからだ。最初のテストマッチは1871年にイングランドとスコットランドが対戦している。テストマッチに出場した選手には栄誉を称え、帽子(以下キャップとする)が授与され、このキャップ数が代表試合の出場回数を意味した。因みにこのキャップを授与するようになった始まりは、ラグビーのルーツとされる当時の寄宿学校(パブリックスクール)であった「ラグビースクール」において、対抗戦に出場する選手に贈呈されたキャップを選手が被って試合に出場したのが由来だと言われている。
このようにテストマッチは、長年に渡り2国間同士によって実施されてきた。ときに南半球のニュージーランドやオーストラリアが北半球に遠征することもあり、また北半球のイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの連合チーム(ブリティッシュ&アイリッシュライオンズ)は4年に1度、南半球のいずれかの国に遠征した。一方で、南アフリカはアパルトヘイト政策により、国際試合の舞台から遠ざかっていた。
南アフリカが世界の舞台に顔を出すのは1995年に自国開催となった第3回大会である。クリントイーストウッド監督による映画「インビクタス/負けざる者」は、1994年に初のアフリカンで大統領に就任したネルソン・マンデラ氏が、国家統一を目指す取り組みの一つとして、ラグビーに着目し、RWC第3回大会を南アフリカで開催する事を決定し、自国開催、自国優勝を成し遂げた実話を映画化したものである。
スプリングボックスの愛称で知られる南アフリカ代表チームが、サモア、フランスなどの強豪国と激戦を繰り広げて勝ち進み、決勝戦では今大会と同様にニュージーランドとの対戦となり、延長戦の末に南アフリカが勝利した。このようにラグビー国際試合そのものの歴史はサッカー同様に古く、また、RWC第1回大会の開催から今大会までの36年の間にも様々な名勝負が繰り広げられ、ラグビーは激動の歴史を重ねてきた。

■日本ラグビーの歴史

日本ラグビーの発祥は、1874年にイギリスの船員たちよって横浜で行われた試合が、日本で最初に行われたラグビーの試合だと言われている。その後、1899年に慶応義塾大学の英語講師だったクラーク氏とイギリスに留学経験のあった田中銀之助氏が、学生たちにラグビーを紹介し、慶応義塾大学にラグビー部が創部された。日本ラグビーの歴史は約150年であり、かつてはテストマッチにおいてイングランド、ウェールズ、スコットランドなどの強豪国と互角に勝負を繰り広げた時代もあった。しかし、1995年のRWC第3回大会において、ニュージーランドに17対145の大敗を期した。その後、日本ラグビーの低迷期を迎える。
一方、1984年に高校ラグビーを題材としたドラマ「スクールウォーズ」が社会現象となり、ラグビー人気が急増した。このドラマは、校内暴力が絶えない荒れた高校において、弱小ラグビー部が僅か7年で全国大会制覇を成し遂げるチームに生まれ変わるという実話をもとにしたドラマであった。ラグビーはこのドラマの影響によって、当時、非行や校内暴力で荒れ果てた学校教育現場を再生するツールとしても利用された。そのため、放送後の1985年の高校ラグビー部の新規登録数は前年比の1.5倍となった。併せて大学ラグビーは慶応義塾大学蹴球部の創設から早稲田大学、明治大学をはじめ全国の大学でラグビー部が創設され、多くのラグビーファンを魅了している。国立競技場で行われた早明戦では、ラグビー人気絶頂期に5万人を超える観客動員があったと記録されている。
しかし、前述したRWC第3回大会での大敗、過去大会において僅か1勝にとどまる勝率は、日本ラグビーの人気低迷に拍車をかける。さらに同時期に日本サッカーが初のプロリーグである「Jリーグ」を創設したこともあり、日本ラグビーの低迷に大きく影響した。Jリーグは地域密着型のプロスポーツとして盛り上がる中、世界のラグビーも1996年以降プロ化が進んだ。一方、企業スポ―ツを母体にアマチュアスポーツとして活動を続けた日本ラグビーは、これによって世界と日本との実力差が顕著となった。日本ラグビーはその改善策として2003年に日本最高峰リーグの「ジャパン・トップリーグ」が開設したものの、数人がプロ選手として活動する程度にとどまり、多くの選手が企業に所属する「企業スポーツ」であることに違いはなかった。
その後、日本ラグビーが再び脚光を浴びるのは、2015年にイングランドで開催されたラグビーワールドカップ第8回大会で、過去にオーストラリア、南アフリカでコーチとして優勝請負人となったエディー・ジョーンズ氏を監督に迎えて大会に臨んだ。この頃には日本ラグビーもプロとして活躍する選手が増える。さらに外国人選手に日本代表として活躍する選手が増えたことにより、日本代表となるための競争率も高まった。その取り組みによって、日本代表は予選プールにおいて優勝候補筆頭の南アフリカに34対32で勝利し、大金星を挙げた。日本代表はこの大会においてサモア、アメリカにも勝利し3勝を挙げた。過去のワールドカップにおいて僅か1勝(第2回大会のジンバブエ戦)しか勝利できなかった日本代表の躍進に世界が驚嘆した。そして、アジア初の自国開催となる第9回大会では、ロシア、アイルランド、サモア、スコットランドを破り、決勝トーナメント進出を果たした。日本に再びラグビー人気が高まり、代表選手の中にはテレビCMなどに出演する選手が現れ、社会的現象となった。

■日本ラグビーの選手育成

かつて日本ラグビーは、強豪国に対して伝統の「低いタックル」と、試合の最後まで「諦めない精神」によって激戦を繰り広げてきたが、前述のように1995年以降、RWC第3回大会のニュージーランド戦に大敗し、さらに世界のラグビーのプロ化によって、世界と日本との間には大きく実力差が開いていった。そして、しばらく低迷期を迎えることになったが、その間、日本ラグビーフットボール協会は世界との壁を感じつつ、たゆみなく日本代表、また日本ラグビー強化対策を行ってきた。かつて神戸製鋼ラグビー部で、また日本代表として活躍した故平尾誠二氏に監督就任を要請し、若くして日本代表監督に就任した。故平尾誠二氏は日本ラグビーの一新を図った。具体的には「平尾プロジェクト」と称し、ラグビー以外の多種目のスポーツ選手に着目し、ラグビー日本代表選手になるための育成プログラムを実行した。また、各エイジ・グレードの選手育成にも注力した。各エイジ・グレードの代表監督やコーチには元日本代表選手を招聘し、将来の日本代表選手になるための育成に取り組んだ。
トレーニングでは科学的根拠を基づく専門的な方法によって行われた。また、日本ラグビーフットボール協会の組織改変にも取り組み、医・科学情報部門の充実を図った。筆者はタレント発掘と世界のレフェリー事情(1996年からニュージーランド・オークランドラグビー協会およびノースハーバーラグビー協会においてコーチングおよびレフェリーのライセンスを取得)についてサポートする役割を依頼された。
しかし、これらのプロジェクトは直ぐには成果を上げることはできなかった。それはラグビーが他のスポーツ競技とは異なり、体格差が大きく影響する競技特性があるからである。そのため、勝敗の「番狂わせ」が非常に少ない競技とも言われている。過去、日本代表選手がRWCで1勝しか挙げることができなかった大きな要因の一つである。平尾誠二氏が日本代表監督を辞任後、ニュージーランド代表として、また世界的にも有名選手だったジョン・カーワン氏が代表監督に就任し、世界との距離は少しずつ縮まっていった。しかし、2007年のRWC第6回大会においてカナダに引き分けたものの、勝利することはできなかった。日本ラグビーの取り組みが、結果となって表れはじめたのは前述したRWC2015年およびRWC2019年において日本代表選手として活躍した稲垣啓太選手、田村優選手、松島幸太郎選手、姫野和樹選手らが、エイジ・グレード代表から成長し代表メンバー入りを果たした結果が大きい要因だと考えられる。彼らは高校日本代表、日本代表アンダー20歳などのカテゴリーを経て日本代表選手となった(松島幸太郎選手は南アフリカのトップチームであるシャークス・アカデミー出身)。

■今後の日本ラグビーの在り方

前回および今回のRWCでの日本代表の活躍は、国民に勇気を与える結果となった。今大会は決勝トーナメント進出とはならなかったが、イングランドなどの強豪国と互角に渡り合った。一方、日本代表と言いながら、外国人選手を多く擁していることに違和感を覚えるラグビーファン、国民がいることも事実である。筆者もその一人であり、日本代表選手にトンガやニュージーランド、オーストラリア出身の選手が多いことに違和感を覚えた時期もあった。しかし、ラグビーは他競技とは異なり、国籍について拘らないスポーツでもある。実際、イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズの代表選手にもニュージーランド、サモア、トンガなどの出身者が存在した。それがラグビーという競技であり、どこの国の出身者かはワールドラグビーが決めたレギュレーションに抵触しなければ問題はない。
筆者もラグビーファンの一人として、今後の日本代表選手が様々な国籍の出身者と力を合わせ、世代交代を繰り返しながら、RWCのベスト8の壁を打ち破ることを期待する。また、タレント発掘事業などの選手育成や科学的根拠を基にしたトレーニング(現在は練習時にドローン撮影した映像を基に戦術、油圧式スクラムマシーンの導入、GPSシステムを用いた選手のパフォーマンス評価などが取り組まれている)が継続して行われていくと考えられ、最新のラグビー・トレーニングが日本から世界に向けて発信される時代がやってくる日もそう遠い未来ではないと思われる。

【参考文献】
・日本ラグビーフットボール協会強化推進本部編『楕円進化論』ベースボールマガジン社 (1998年)
・鈴木秀人(著)『変貌する英国パブリック・スクール』世界思想社 (2002年)
・杉谷健一郎(著)『500年前のラグビーから学ぶ』文芸社 (2005年)

溝畑 潤
関西学院大学人間福祉学部人間科学科 教授
専門分野は発育発達学、体育方法学、コーチング学。専門種目はラグビーフットボール。
これまでに日本ラグビーフットボール協会で医・科学委員会科学情報部門委員(2002~2007年)、技術委員会技術開発部門委員(2017~2019年)を歴任。
ラグビーフットボールのレフリーとして、関西ラグビーフットボール協会公認レフェリー、ニュージーランドラグビーフットボール協会公認レフェリー(Level1、Level2)、ウェールズラグビーフットボール協会公認レフェリー(Level3)、国際パネルレフェリー(2006~2013年)の資格等を取得している。

【主な著書】
ライリ・ベル, マーク・ローリー(著)溝畑潤 他(訳)『ラグビーのルール-わかりやすい言葉による手引書』(共訳) 晃洋書房 (1999年)
『教職者のための基礎体力』(共著)六甲出版(2000年)
『Living in Society: From People to Person』(共著)南雲堂(2011年)
『English for Human Welfare Studies』(共著)朝日出版社(2018年)