大学運動部のコーチとアスリートの考え方における「これまで」と「こらから」-プレーヤーズセンタードの先にあるもの

■絶えない大学運動部の不祥事

A大学アメリカンフットボール部の寮で、乾燥大麻と覚醒剤成分を含む錠剤が見つかり3年生部員が大麻取締法と覚醒剤取締法違反容疑で警視庁に逮捕された。
また、時を同じくして、B大学ラグビー部員3人も岐阜県警に大麻取締法違反容疑で逮捕され、7月にはC大学ボクシング部員2人が同法違反容疑で逮捕された(産経ニュース;2023)。
かつては、大麻事案だけではなく、D大学の運動部員が集団準強姦容疑やE大学アイスホッケー部員が窃盗事件でそれぞれ逮捕されるなどの事件も相次いだ。
さらに、E大学ボクシング部員2人が強盗容疑で逮捕された事件では、2人の通行人に因縁をつけ、顔や腹を殴って現金を奪う犯行を繰り返していたという(日刊スポーツ;2009)。こうした事案の報道が続けば、実は、まだ表に出ない大学運動部の不祥事事案があるのではないかと疑いの目が向けられてしまう。
そうしたことから日本においても、アメリカの大学スポーツを統括する組織であるNCAA(National Collegiate Athletic Association)に倣い、その日本版の大学スポーツ協会(UNIVAS)の設立とともに、大学運動部の学生における競技力のみならず、人間力を高める取り組みがスタートした。

■コーチファーストからプレーヤーズファーストへ

大学運動部において、コーチの指導に関する考え方は「指導する側・される側」という旧来の価値観からあまり目立った変化が見られずに時代を重ねてきた経緯がある。伊藤(2021)の言に従えば、運動部におけるコーチの指導スタイルは、主に3つの考え方の変遷を経ている。まずは、コーチファーストから始まり、それに反発する形でプレーヤーズファーストという言葉が生まれた。
一方で「選手のため」と言いながら、“勝ちたい”や“結果を出したい”という指導者の満足感のために不適切な行為や指示・命令型の指導があった。それは“プレーヤーズファースト”や“ウィニングセカンド”という理念を置き去りにし、「プレーヤー(が勝利すること)こそ一番」という言葉だけが先走りはじめた現実でもあった。
大学運動部はプレーヤーズファーストと言いながら、現実はコーチファーストの考え方が根強く残っていたため、上記のようにプレーヤーズファーストの考え方に誤解が生じやすかった。それは、監督・コーチを頂点にした勝利至上主義のピラミッド構造と選手の技術や技能、体力を中心とした能力によって順位づけされたヒエラルキーによって権力構造が形成されていったことにある。そうした、監督・コーチを中心としたピラミッド構造と選手能力のヒエラルキーいう誤った見方・考え方から、能力の高い選手の“アスリートファースト”として歪んでいったのである。
やがてヒエラルキーの上位層は利己的になったり、下位層は競技へのモチベーションが保てなくなったりして、冒頭の世間を騒がす不祥事事案を生み出してしまった。
そうしたこれまでの考え方の経緯をふまえて、もっとプレーヤーの視点に昇華した考え方として“プレーヤーズセンタード”という言葉が生まれた。
換言すると、コーチファーストの脱却からプレーヤーズファーストが生まれ、突き詰めていくうちにもっと高いレベルでのコーチングやプレーヤーズセンタードに進化し、スポーツに関わるすべての人が幸せになるという段階にようやく入ったという流れにある(伊藤;2021)。

■プレーヤーズファーストからプレーヤーズセンタードへの転換

前述の通り、スポーツの指導やコーチングに求められる考え方が、コーチファーストからプレーヤーズセンタードに大きく転換された。しかし、なぜプレーヤーファーストではなく、プレーヤーズセンタードでなければならなかったのだろうか?
かつて、日本サッカー協会は2015年に『合言葉はPlayers First!!』という冊子を刊行して、啓蒙活動を行った。また日本バスケットボール協会も2018年に「プレーヤーズファースト」の推進を掲げたが、やはり、ファーストの意味がアスリートの順位やランクの高い選手のための「ファースト」と履き違いされ、現実的には、あまり上手くは進まなかったと言える。
一方で松尾(2021)は、野球のイチローのようなプレーヤーの出現が大きいことを例にあげて、自分で考え、判断し、自ら伸びていくという自発的な取り組みが、プレーヤーズセンタードの考え方につながったと述べている。
プレーヤーズセンタードのポイントは、センターにプレーヤーがいて、そのプレーヤーを取り巻くコーチや関係者がポジティブに相互作用しながらスパイラル状に発展し関係を築いていくことにある。
従来、指導者と保護者の間での狭い範囲でプレーヤーの往還運動(ループ)的な要素のプレーヤーズセンタードはあったが、それをもっと大きな場の視点で捉え、図のようなプレーヤーやアントラージュ(関係スタッフ)も含めた良好な関係をめざして高まっていく、そのスパイラルな関係こそ重要であるとした。

 図 プレーヤーズセンタード全体像(松尾;2021)

■スポーツの考え方と人間性

バレーボールの練習で、一発返しがよくないと指導する場面がある。その理由は、他の選手がボールに触れる機会がなくなったり、ワンマンプレーになったりするからよくないというのである。つまり、メンバー間で協力し合う重要性を意図して道徳的なニュアンスでそのように指導するのである(鈴木;2021)。
果たしてそれでよいのであろうか? 
バレーボールは、ネットを挟んで「返せるか・返せないか」という攻防を繰り広げるとこに面白さや醍醐味があるスポーツであり、したがって選手が主体的にパスやトス、レシーブ、そしてスパイクやアタックなどの連携プレイを選択し、相手と競い合うからこそ純粋に楽しいスポーツなのである。
元々スポーツとは、無価値で無色透明である。それ自体には社会的な価値がなく、もっとも最初から付与される価値は設定されてない。だからこそ、純粋に「楽しい」のである。
元プロ陸上アスリートの為末大(2012)は、スポーツは健康のために役立つとか、発育発達によいなどの価値がスポーツに付与されると途端に窮屈に感じてしまうと言っている。それは、スポーツという本当の価値は「楽しい」という、純粋無垢な部分しかないからである(菊;2016)。
本来スポーツという行為は、無価値で無色透明でそれ自体から何も生まれない。純粋な楽しさでしかないからこそ、多くの人が愛(アモーレ)して止まなくなるのである。
だから、スポーツとプレーする個人の人間性とは別物であり、スポーツを行っているからよい人間になるのではなく、練習以外の場面において、人としてのモラルやマナーといった人間教育が必要なのである。つまり、スポーツの場面においては、プレーヤーである前に人としての倫理や道徳も必然的に求められるのである。それが今日でいうインテグリティ教育やモラル教育であったりするのである。

■その先にあるもの

プレーヤーズセンタードとは、コーチやスタッフ、保護者、そして各種スポーツ連盟の役員も含めたすべての関係者をアントラージュとして捉えて、スポーツを愛し、アントラージュとプレーヤーの双方にとって「楽しい」ことの一致を見い出すことで、共に学び合い高め合う関係を育むことになる。そうした環境から、さらに新たな理念や考え方が生成されることが、この先にも求められる。同時にコート外でのプレーヤーもアントラージュも共に人間教育とセットで行うことが大切になる。結果として、そうした相互関係のなかで、課題が表出されても随時解決したり改善したりしながら大学運動部の組織として健全性や高潔性(インテグリティ)が保たれるのである。いわば、いま、プレーヤーズセンタードと人間教育を昇華し、各大学運動部独自の知の創出や思想が求められているのである。

【引用・参考文献】
・伊藤雅充「「プレーヤーズファースト」と何が違う?-プレーヤーズセンタードがめざすもの」Sport Japan56:7-9(2021)
・松尾哲夫「それは、まさに必然だった-プレーヤーズセンタード推進の理由」Sport Japan56:4-6(2021)
・鈴木秀人他(編)『第6版 小学校の体育授業づくり入門』学文社(2021)
・為末大「「スポーツは遊び」肯定-ホモ・ルーデンス」星野学(構成)「思い出す本・忘れない本」朝日新聞(2012年7月22日付)
・菊幸一・ベースボールマガジン社(編)「無価値で無色透明なスポーツという文化を考える」(突撃!研究室訪問第66回) コーチング・クリニック30(6):83⁻85(2016)
・佐良土茂樹(著)「コーチングの理念・哲学」平野裕一他(編)『グッドコーチになるためのココロエ』培風館(2019)

清野 宏樹
桃山学院教育大学人間教育学部人間教育学科 准教授
同大学陸上競技部部長・監督、女子バスケットボール部副部長・コーチ
専門分野は体育科教育学、保育領域(健康)、障害者スポーツ論など
【主な著書】
第2版 中学校・高校の体育授業づくり入門』(共著)学文社(2019年)
特別支援学校 新学習指導要領・授業アシスト-資質・能力を育む国語-』(共著)明治図書(2020年)